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記事一覧

工兵、日露戦争近代兵器(技術)その13

欧米の日露戦争記録を読むと、観戦武官、ジャーナリストが気が付いた事実のひとつに日本軍工兵技術の効率性があげられた。仁川(現在のソウル国際空港のあるところ、後の1953年、マッカーサー元帥が朝鮮戦争中にも上陸作戦を実施した)上陸作戦の手際の良さだ。仁川は京城(現在のソウル)への海港であり、朝鮮半島ののど元とも言う要所だ。またこの地は干潮の差が大きく、時には10mくらいあると言う、その干潮の差を克服す...

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戦争に勝ち負けなし。

日露戦争以前の戦力は、推定、ロシアが海軍80万トン、陸上500万人。日本が海軍26万トン、陸上数十万の規模であった。戦中、陸上兵力は双方とも、満州に200万人規模を送りこんだ。明治37-8年戦史によれば、ロシアの死傷者115000人、捕虜約8000人。日本の死傷者118000人、捕虜2000人であった。従って、陸上の損害はほぼ拮抗していたが、ロシアは海で、約100隻の艦艇を失った。1905年6月の...

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日露戦争の日本兵

10年以上前になるが、「中国戦線の日本兵ー1930年代」と言う英文の本を書いた。日本兵の特質、兵器などを、東京日日(現毎日新聞)資料写真(勿論有料でお支払いした)から借用し、それに説明文をつけた。約80様ほどの様々の設定、偵察、行軍、兵器の整備、戦闘、休息、待機、などの様子に主に兵器、装具の運用、その背景などを、欧米の日本軍研究者、収集者用にまとめたものだ。今回、日露戦争の日本兵の写真、画像を見て...

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ロシア要塞とロケット砲 日露戦争の近代兵器その12

旅順の3つの強力な要塞は、砲、機関銃のほか、画像のような新兵器、ロケット砲も使用していた。一般の砲は砲台からだけでなく要塞内部から発射できるようになっており、機関銃、歩兵が死角がないよう設計された銃眼から射撃した。このロケット砲は、恐らく世界で始めて実用に用いられた兵器であると思われる。日本軍側がロケット砲を使用したという記録は見ていない。また日本軍が鹵獲した多くのマキシム機銃は、双輪架台に載せら...

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観測気球、日露戦争の近代兵器その11

旅順港は港口が狭く陸側は山に囲まれており、203(メーター)高地を攻略するまで日本軍はその内部をうかがい知ることは出来なかった。そのために、観測気球を上げて、気球に吊るされた籠から観測兵が望遠鏡で内部を観測し、それを電話で地上に伝えた。この観測気球には水素ガスが使われていた。水素ガスは不安定で、弾丸1発を浴びると爆発したと言う。現在の飛行船、気球は安定性の高いヘリュームガスを入れているので、爆発の...

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光学兵器の活用、日露戦争の近代兵器その10

19世紀の中ごろより戦闘で双眼鏡が使われるようになった。日露戦争ではドイツ製などヨーロッパ製の双眼鏡、観測鏡が使用された。国産化は日露戦争後で民間会社、日本光学(ニコン)が設立されたのは1917年だった。日露戦争で使用された陸海の光学兵器は、1)状況観測用の双眼鏡2)信号観測用の望遠鏡(かっての天体望遠鏡のような鏡を使わない筒状)3)砲隊鏡、左右の鏡で距離を測るもの。などであった。陸軍においては、...

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サーチライト、日露戦争の近代兵器その9

エジソンが電気、電球を実用化してまだ何年もたってなく、電気が一般的に使われていたのは、アメリカか英国の都会でしかなかった時代、1904-5年に、日露両軍はサーチライトを、陸海で効果的に使用していた。おそらく、日露戦争は軍事目的で電気、サーチライトを使用した初めての戦争であっただろう。陸では、旅順要塞のサーチライトは夜間攻撃する日本軍を悩ませた。サーチライトに照らされて、機関銃で射撃されれば攻撃側の...

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自転車の活用ー日露戦争の近代兵器その8

マウンテンバイクがブームだ。日本でもアメリカでも自動車に自転車を積んで、適した山を自転車で走破する。脚力はいるが、良いスポーツだ。日露戦争中、日本軍は自転車を活用していた。単に、伝令とか連絡目的だけではなくて、偵察や戦闘にも組織的に使用していた。まさに今のマウンテンバイクだった。明治時代、社会ではまだ自転車が一般的でない頃、軍用に多用されていたことは特記される。他の欧米諸国の軍隊はどうであったのか...

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カーキ色の採用,日露戦争の近代技術その7

20世紀初頭にはカラー写真はなかった。しかし白黒写真に着色しカラー化することはあった。多分、石版で印刷したので費用は掛かったことだろう。もしくは一枚一枚、手塗りでカラー化した。こういう資料で一般的なのは、横長のカード式、立体鏡だ。手で保持する眼鏡に横に同じ写真が2枚印刷された(左右のずれを利用して立体化する)を覗く簡単な仕組みの娯楽用品だ。19世紀末から20世紀初頭、欧米では一般的だった。そのソフ...

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日本海海戦の結果は30日に発表された。

27日から28日にかけての日露の日本海における開戦の結果は、29日どうも日本側が勝利したらしいと世界に伝わっていた。しかし当時の通信環境から、30日になって日本側は、日本は水雷艇3艦を失ったが、バルチック艦隊のほとんどを壊滅させたと、世界に向かって発信した。一番、よろこんでくれたのは、英国そして米国だった。他の国ぐには半信半疑であった。ロシア皇帝は「悪いニュース」を日記に書きとめた。(小島 襄著「日露戦争...

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日本軍の医療(日露戦争中)

アメリカの軍事アタッシュ(観戦武官)のレポートの中に日本軍の医療能力だけのレポートがある。[Report of Military Observers attached to The Armies in Machnria during the Russo-JapaneseWar Part VI janusary 1 1907」がそれだ。日本の軍事医療の水準が知れる。医療品の運搬、衛生、治療、実績、犠牲などがが細かく記されている。(防衛医大にこの資料はあるだろうか?)そのなかに日本軍が携帯用、野戦で使っていたレント...

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漂着したバルチック艦隊の将兵

ちゃんと学校で教えてほしいことに以下の事実がある。日本海海戦が終わり、1905年5月28日から29日にかけて、対馬や、日本海側の海岸に日本連合艦隊に撃沈された、バルチック艦隊の将兵達が漂着してきた。当時はメディアが発達したないから、過疎地の住民は、日本海海戦のこと、またどちらが勝ったかなどの情報は伝わっていなかった。「History of Russo-Japnese War]は赤表紙の1巻から5巻まである各々が焼く300ページ近い、総計1...

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黒木為禎将軍は欧米人に人気があった。

黒木為禎(ためとも)将軍は日露戦争で第一軍を指揮し、仁川に上陸、北上し、鴨緑江でまずロシア軍を最初に破り、奉天攻撃を行い、実質的に日露戦争中、朝鮮半島、満州に派遣された日本軍陸軍の4分1の兵力の責任者、軍指令であった。黒木将軍は日露戦争勃発の時、すでに60歳であった。完全に侍の時代の人だ。1945年、薩摩生まれ、もちろん薩英戦争、明治維新の経験者で、若年の頃はまさか自分がロシアとの戦いの主な戦闘の...

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要塞と日露戦争

さまざまな19世紀にはなかった新技術が試された日露戦争。その発端は1900年の義和団事変で、出兵したロシアは満州地区から撤兵せずに、清国と密約を結び、旅順港を要塞化した。[Official History of the Russo-Japanese War, 1909年英国国防省偏」4巻ものの3巻目に、旅順港の3つの近代的要塞の様子が描かれていた。203(メーター)高地に建設された、Fort Chi-Icuanは従来の砂袋や丸太のみならず、コンクリートを使用した...

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日本での報道が異様に少ない日本海海戦

昨日、5月27日にお会いした人たちに「今日は何の日ですか?」と言う質問をしてみた。年配の人も含め、ほとんどの人から「日本海海戦100周年です。」と言う答えは返ってこなかった。大体、報道が少ないのだ。すこし、戦艦「三笠」記念館でのイベントを伝えてものがあったくらいだ。ロシアでの報道のほうが多かったのではないか。ウラジオストックの海軍基地では慰霊祭が行われたそうだ。また「今の軍事力も古い装備が多く、1...

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日露戦争は世界初の近代戦

今まで述べてきたように、レントゲンなどの近代衛生医療施設など兵器以外でも、近代的な艦船、大口径砲、高性能爆薬、魚雷、機雷、機関銃、無電電信などのコミニケーション装具、さまざまな今までの戦争では使用されなかった、近代的、科学的な武器兵器が多種使用された。これから紹介していくものでは、1)観測装具と気球 砲弾の観測のために、眼鏡、気球などが使用された。2)サーチライトなどの照明器具。日露戦争は戦史上、...

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1905年5月27日午後のロシア艦の様子

japan's fight for freedom誌の幾つの画像を見ると悲惨な状況であった。バルチック艦隊司令長官ロジェストウエンスキー中将は重傷を負い、指揮がとれない状態だった。一番上の画像。司令官はこの後、横の破壊されて砲塔に避難したが意識を失った。旗艦が沈んだの別な艦に収容され、最終的にはその艦は日本に降伏し、彼は日本側に収容され手当てを受けた。しかしロシア艦隊の乗組員は戦闘を予期してきたわけであり、自らその運...

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日本海海戦、1905年5月27日午後2時

人類の歴史には幾つ大きな節目があっただろう。その10大転機を選ぶなら、「日本海海戦」は確実にそのひとつに入る。ロシアは日本海海戦に完敗したことにより、講和を余儀なくされ、国内情勢はさらに深刻化、結果、共産主義国「ソ連」が誕生し、20世紀の残りの諸問題は「ソ連」が何らの形で関与した。「ソ連」を生んだのは「日本海海戦」と言っても間違いないだろう。東シナ海を北東に向かって来た、バルチック艦隊と日本の連合...

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敵艦見ゆとの警報に接し、1905年5月27日早朝

日本の警戒線は五島列島と済州島の間に6艦を配し、そのうち4艦は縦に、バルチック艦隊が航行してくるであろう範囲を行き来するという体制をとっていた。巡洋艦「磐手」艦長、川島大佐は寝ておこうとしたが、目がさえて「明日知らぬ身も忘れて思う哉千代万世の国の御栄え」と言う歌を詠んだ。(児島 襄著「日露戦争」より)当時は自分より国、社会、そして家族の繁栄を祈るのが個人の価値感であった。バルチック艦隊は日本の水雷...

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我が家にある「日本海海戦」

今は掛けておくところもないが、我が家には2点の日露戦争の記念品がある。ひとつは額だ。たて35cm、横70cm、黒枠の金地の額で、中に印刷された「日本海海戦―五月二十七日午後二時過ぎ」とあり、日本連合艦隊、戦艦三笠を先頭にいずれも戦艦、敷島、富士、朝日、それに巡洋艦「春日」「日進」の第一艦隊が一列になり、後方に第二艦隊の姿が描かれたいるものだ。すでに三笠の周辺には数発の砲弾の水煙が上がっている。もう...

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無電、電話、日露戦争の新兵器その7

電話は1876年、グラハム・ベルの発明であり、19世紀後半から欧米では民間でも使用されていた。(グラハム・ベルは聾唖者の教育者で音声を振動に変える、電気で送る、と言う仕組みを作った。「ハロー」と言う電話の呼びかけは、一歩の差で特許申請に負けたエジソンの発明だった。)無電は、フランスのマルコーニが1895年に発明した。電話も無電も日本の明治維新後、近代化を進めている最中の新技術であったので、日本はそ...

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100年前の今日、1905年5月26日

25日、連合艦隊は、バルチック艦隊は対馬方面に向かってようだから、26日に北進して津軽海峡か、宗谷海峡で迎え撃つと言う決定をしていた。しかし26日、夜中に上海から緊急電が入った。「ロシア輸送艦等8艦が上海(清国は中立国)に入港した。」と言う内容であった。この事実への解釈は2通りあり、ひとつはロシアの陽動作戦で、艦隊本体は太平洋へ向かった。他は、艦隊は余分な艦を切り離し、対馬に向かっている。だった。...

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100年間は長かったか短かったか。

日露戦争の天王山、日本海海戦100周年まであと48時間だ。100年前の日本の緊張感を偲び、その後の歴史、近隣諸国との関係に触れてみたい。明治維新から約75年間、日本は[富国強兵]、[殖産興業」のもと、急速な近代化、西欧化に勤めた。しかし丁度、日露戦争をはさんだかたちで、その帝国主義的近代化は挫折した。第二次世界大戦での敗北であった。中国と紛争が始まったのは満州事件(昭和6年、1931年)からだとする...

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日露戦争と医療、新兵器その5

日本は始めての西欧との戦争に備えて様々な準備をしたが、衛生、医療の分野もその一つだった。近代的軍隊では、非衛生な環境から戦病死の率が高くなると、戦力に影響するので、兵への衛生教育に力を入れた。また負傷兵の速やかな搬送、手当て、療養などもシステム化しなければならかった。森鷗外のドイツ留学や軍医療の整備は中長期なその目的のためであった。すでにレントゲンは実用化されていて、この戦争でも両軍に使われ...

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100年前の今日、5月25日

バルチック艦隊は日本近海に近かずいてきた。しかしその進路はまだ不明だ。東シナ下海を北上していた。午前5時、進路を北80度西、つまり中国大陸よりに変えた。天気は曇天、小雨、強い西風、視界は良くなく、前線の中にあったと思われる。上海の東方で輸送船6隻、仮装巡洋艦2艦の、8艦を艦隊から分離した。この8隻は上海を目指した。(26日に上海に入港したこれらの輸送船の動向で、日本側はバルチック艦隊の意図を確信し...

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人口増加が無かった日露戦後

日本は明治37-38年(1904-05年)の戦役の後、数年間は人口増加が極端に低くなった。これは戦役における青年男子の損害が如何に社会に影響を与えたかの一例であった。日本海海戦と並び、日本側の勝利を実証したことに、1905年3月11日、満州の中心奉天が陥落があった。ロシア軍はクロパトキン大将をはじめ、軍勢は鉄道を使い、また地上をちりじりになって撤退した。この作戦に日本軍は25万人の兵力を投入して、7...

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魚雷と機雷、日露戦争における近代兵器その4

英国の出版物「Japan's Fight for Freedom]に、日本の魚雷の仕組みが記述されている。日本では「水雷」と言う言葉を使用していたが、これがあるときは「機雷」を意味していたことがあった。ロシア側は日本の水雷艇を非常に恐れていた。バルチック艦隊が出港して北海を出てまもなく、英国沖で、英国の漁船を日本の水雷艇と間違えて、発砲した事件があったほどだ。シンガポール沖でも、ベトナムでも日本の水雷艇がどこかから現れ...

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100年前の今日、5月24日

ロシアでは戦争による疲弊から民衆の不満が膨張しつつあった。(ロシアの拡大政策は、その後のソ連もまったく同じ道をたどるが、ほぼ一瞬にしてしぼんでしまった。歴史は繰り返すと言う言葉の意味は重い。)連合艦隊は、さまざまな情報が入るが、未だバルチック艦隊の進路をつかんでいなかった。対馬海峡、朝鮮海峡を目指しているのか、太平洋を北上し、津軽海峡を目指しているのか。この事実を見ても地理的に日本列島はロシアの南...

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明治天皇と日露戦争

「明治天皇と日露戦争」は1957年、新東宝映画で、当時日本国民の多くが見た。丁度、戦後12年、朝鮮戦争が終結、東西冷戦開始の頃だった。そういう時代背景だからこそ、今まで占領軍に抑制されていた日本の軍国的テーマが映画化されたのだった。私も子供の頃、見た記憶が鮮明に残っている。特に203高地攻撃のシーンだ。特撮も良く出来ていたと思う。明治天皇役は嵐寛寿郎と言う時代劇俳優だった。最後の明治天皇が、国民の...

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日露戦争のなかのヒューマニズム

英国の出版物「Japan's Fight for Freedom]-日本の自由のための戦い、には欧米ジャーナリストが見た様々な戦闘における人間的なシーンが描かれ、書かれている。先にも書いたが、20世紀初頭の日露戦争では、まだ、それ以前の思想、敵でも「思いやる」と言う武士道、騎士道、の精神が活きていた。また相手の名誉にも配慮すると言う姿勢も見られた。日本人は東洋の野蛮人ではなく、西欧的な人格をもった人間として欧米のジャー...

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プロフィール

japaneseweapons

Author:japaneseweapons
日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



刀,弓,槍,薙刀,甲冑,鎧,火縄銃,軍用銃,機関銃など日本の武器や兵器に関する須川薫雄の研究を紹介はここ:
日本の武器兵器.JP


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