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記事一覧

通商破壊の非情 「深く静かに潜行せよ」 戦争映画100戦 その17

第二次世界大戦中のアメリカの潜水艦による、無差別通商攻撃は、ナチスの作戦に匹敵する非情さだった。アジアでの連合軍捕虜を日本本土に移動中、この通商破壊で1万人が犠牲になったと言われている。日本側は各船に捕虜を振り分け、海外放送などでそのことを通告していたと推測される。しかし、それが届かなかったか、無視したか、これも謎だ。対馬丸の悲劇もそのひとつだ。アメリカ対日戦戦略は徹底的な日本の工業生産力破壊で、...

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忘れられた戦争 [PORK CHOP HILL] 戦争映画100選 その16

停戦交渉が行われているのにその切り札の一枚として、ある丘の奪還を命ぜられた、アメリカ陸軍歩兵中隊の話である。戦闘シーンが淡々としており、リアルであり100選に入る名画だ。朝鮮戦争後期、停戦交渉を有利に進展させようと、38度線近くの低い丘を奪還するアメリカ軍と、中国軍の猛攻の話で、その戦闘内容は殆ど日露戦争と変らない、白兵中心のものであった。「ポークチョップヒル」とは豚肉に切り身のような丘と言う意味...

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日本人が知らない朝鮮民族の苦難 「ブラザーフッド」 戦争映画100選 その15

歴史教育論争は、朝鮮半島でも、日本でも正道を外れている。本当に知識として知っていなければならない事実は何か。「朝鮮戦争」はその一つの重要な出来事だった。朝鮮戦争の悲劇を日本人は認識した上で朝鮮民族の人々と付き合うべきだ。そのような意義からこの映画を「戦争映画100選」に推挙する。私は「韓流作品」を好まない。オリジナリティに疑問があるからだ。しかし「ブラザーフッド」(原題は「大極旗を翻して」監督 カ...

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ベトナムの後遺症 「フルメタルジャケット」 戦争映画100選 その14

ベトナム戦争は1964年からアメリカが積極的に介入し、南ベトナムを支援、北爆、北から南に侵攻ルートへの攻撃などを’60年代後半から’70年代の前半に戦われ、1975年の完全撤退まで約10年間の戦争だった。1987年はベトナム戦争映画の当たり年だった。「プラトーン」と並ぶ作品として、スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)監督の[Full Metal Jacket]が製作、公開された。この作品はオスカーにはノミネー...

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戦後4分の1世紀同じことしてきたアメリカ 「プラトーン」 戦争映画100選 その13

「プラトーン」はベトナム戦争映画best5作に入る名作だ。1986年、オリバーストーン監督、4つのオスカー(アカデミー賞)を獲得した。現在の日本とアメリカ、何が違っているか?「根性」が違うと感じることが多い。アメリカは1950年代から70年代前半まで、アジアで共産主義者と戦い、大変な苦労をした。大勢の若者が命を落した。社会や家庭に大きな影響を与えて。その頃育ったベビーブーマーが今引退しつつある。彼らは...

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日本軍の捕虜の扱い 「戦場にかかる橋」 戦争映画100選 その12

英国出身の映画監督、ディビット・リーン(David Lean)はこの映画を製作した後、「アラビアのロレンス」、「ドクトルジバゴ」、「ライアンの娘」そして「インドへの道」と立て続けに大作に取り掛かり、その最初の3つは戦争、紛争に関係のある映画だった。これら全て作品が成功した。「戦場にかかる橋」は原題{The Bridge on the River Kwai]で1957年の映画だった。ストリーは第二次世界大戦初期、アジアで日本軍の捕虜になった...

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「パットン」 アメリカ最後の武人とその死 戦争映画100選 その11

1970年、FOX作品[PATTON]は、アメリカ陸軍ジョージSパットン将軍の第二次世界大戦参戦の時から1945年末の悲劇的な死を描いた戦争映画で、アカデミー賞8部門を受賞した。監督は「猿惑」で有名なフランクリンJシェファー、主演はジョージCスコットだった。パットン将軍はその攻撃的ユニークな性格でよくマッカサー最高司令官と比較された。似てると言えば似ており、アメリカ軍の最後の軍人らしい軍人の典型だった。この映画...

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日本戦闘機の写真銃 多くが「コニカ」製

第二次大戦中の日本陸海軍航空機に装備えられたカメラは偵察用と射撃観察用、2種に分類される。射撃観察用カメラはムービーカメラである。[Japanese Aircarft Equipment]に掲載されているカメラ類は殆どが「六櫻社」後の「小西六」現在の「コニカ」の製造であった。写真の下の例は、海軍の八九式ルイス型射撃監査写真機で、ムービーカメラである。先回、紹介したものは旋回式としてあったが、この機械は固定用に使用されたようであ...

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真珠湾攻撃 「トラ トラ トラ」 戦争映画100選 その10

「トラ!トラ!トラ!」は真珠湾攻撃を日米、両側から描いた、どちらかと言えば記録映画的な作品であるのが特徴だ。従って、日本側は深作 欣二監督が、日本の有名俳優を使い、大掛かりなオープンセットで、撮影した。撮影に必要だった航空機はアメリカから持ち込まれ、日本の対空証明を取得し、日本の空を飛行した。アメリカ側の監督はリチャード・フレッシャー。製作の豪華さ、手間の掛け方、こだわり、こういう観点からこの映画...

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中国人監督が描いたサイパン戦 「ウインドトーカーズ」 戦争映画100選 その9

ジョン・ウーはアメリカで活躍する中国人映画監督で、「ミッションインポッシブル」「フェースオフ」など独特のアクションムビーで実績がある。現在も6本の作品を製作中と言う。彼が監督した「WINDTALKERS]2002年MGM(画像はそのDVDのケースより)は、日本軍や日本軍兵器をなかなか正確に使っていて感心した。戦争映画100選に推薦したい作品のひとつだ。アメリカ軍(本当は陸軍がフリッピンで活用した話であるがこの映画は...

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「土と兵隊」は戦意高揚映画化か? 戦争映画100選 その8

日本の戦前の戦争映画ほど、その製作意図が明確でないものはない。戦前、軍国主義が燃え盛り、検閲の厳しい中、製作されたので、「反戦映画」であったはずがない。しかし、どの作品を見てもそれらは戦争を強く肯定するものであったものでもない。娯楽映画でもない。戦場の正義、勇気、また悲惨というような単純な感情でもない。では何を言いたいのか。明確でない。私にはその点がとても不思議である。特にこの作品、日活製作、19...

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「セービングプライベートライアン」に見た人情 戦争映画100選 その7

スピルバーグは戦争映画製作が好きだ。「シンレッドライン」を挙げた以上、比較の意味でもこの映画は無視できない。また、この映画と昔の連続テレビ番組「コンバット」をベースして、HBOで「バンドオブブラザーズ」が製作された。アメリカは欧州戦線への参加が遅れたが、大陸への侵攻作戦、1944年6月4日、ノルマンディー上陸作戦ではアイゼンハアー司令官以下、アメリカ軍が主力となった。この映画の展開は、2人の兄が戦死...

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「ビルマの竪琴」にみるゲイイズム 戦争映画100選 その6

1956年、竹山 道雄の小説を、和田 夏十が脚色し、市川 昆監督の日活作品だ。(画像はビデオパッケージより)まだ、日本は第二次世界大戦が終了しそれほど年月も経過してなく、高度成長期の前だった。戦争映画ではあるが戦闘シーンより、人々の心にはまだ前線から戻らない肉親に対しあきらめきれない気持ちがあったこともあって、大ヒットした。白黒作品である。私は学校の映画鑑賞で観に行った。当時、男性の先生たちは殆ど...

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「シンレッドライン」に見るガダルカナル戦 戦争映画100選その5

「戦争映画100選」のなかでも間違いなくベスト10に入る作品だ。同じ年1998年に公開された、スピルバーグの「プライベート・ライアン」と比較され、アカデミー賞は「ライアン」が総なめしたが、「レッドライン」はベルリン映画祭のグランプリを獲得した。この映画の最大の間違いは「ライアン」と同じタイミングで公開されたこと、と言う評論もある。その他はストリー、映像、俳優、演技、効果すべて完璧な作品であると、私...

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1945年作品「コレヒドール戦記」での日本軍 戦争映画100選 その4

戦前より高名な監督、ジョン・フォードは第二次大戦中、記録映画製作のため太平洋に赴いた。ミッドウエイ島で、日本軍からの攻撃シーンを撮影した。ここで、彼が監督し撮影した、フーテッジは多く「We were Expendable](我々は消耗品だったー日本題名は「コレヒドール戦記」に使用された。この映画は1941年末から42年初頭にかけての日本軍のフリッピンへの侵攻と、アメリカ海軍魚雷艇隊の抵抗を描いた作品である。画像はビ...

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「太陽の帝国」の終焉 戦争映画100選 その3

スピルバーグ監督、1987年の映画「太陽の帝国」(原題 Empire of the Sun)は日本の太平洋戦争突入から、終戦まで上海の収容所に入れられていた英国人少年の物語だ。「太陽の帝国」とは言うまでもなく、日の丸、すなわち日本帝国のことであった。少年役は、最近「バットマンリターンズ」のバットマンを演じた、クリスチャン・ベールだった。少年は日中戦争中も、上海英国租界で実業家の父と母とで、豪華な邸宅で暮らしていた。...

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日本の武装解除はなぜ円滑に進行したか?

イラクの映像を見ていると、どこにあれだけの爆薬、迫撃砲、ロケット砲などを隠していたのか、また何かあると一般市民ですら、いろんな形状のAK47を持ち出して、町の中をうろうろしている。引き金に指を掛けてる人もいるから暴発などの事故も多いだろう。なぜ、イラク占領で武装解除が徹底しなかったのか。不思議に思う。一方、1945年8月15日の終戦から、日本での武装解除では一切の兵器、武器の類は民間には残されなかった...

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「日本のいちばん長い日 」その2、8月15日 戦争映画100選その2

この作品は大宅 荘一氏の各種の聞き取りや取材からまとめたものだが、映画を脚色したのは橋本忍氏であった。当時の有名俳優だけで、4-50人は出演していたであろうか。(但し女優は1人だけだった。)反乱を起こす狂信的な畑中少佐を諌めるでもない、勇気付けるわけでもない、無策な上司、[井田中佐](高橋 悦史)がいた。彼は陸軍省軍務課課長であった。この井田中佐は、1960年代後半、私が入社した会社の「総務部長」で...

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「日本のいちばん長い日」その1、 8月14日

1945年8月、日本がどのように戦争を終わらせたか、大谷壮一氏のノンフィクションを岡本 喜八監督が1967年映画化した。(東宝作品)今の映画ように「お笑い役者優先」でなくその手の役者は1人も出てこない、演技派ばかりのまじめな戦争映画だ。8月になって、日本は絶体絶命だった。どうやってポツダム宣言を受諾するか。8月14日から15日に掛けての1日間の話だ。内閣が天皇のご聖断を仰ぐ、その間にも埼玉県児玉基...

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残存する日本機

第二次世界大戦連合軍国、特にアメリカには大戦中生産された日本機が残っている。日本の個人、団体が個人から買い取ったもの、寄贈されたもの、日本にも少し戻ってきている。また日本国内では、湖水や近海に不時着した機体が回収、修復されて保存されているものもある。但し日本では所有者、保管者が同一でないことはもとより、組織的な展示がなされてないのは残念である。お台場「船の科学館」の横に展示されていた「二式大艇」は...

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本土上陸と特攻兵器の威力

1945年8月、連合軍の本土上陸作戦が行われとしたら日本側が準備した特攻兵器はどの程度の効果を発揮したであろうか。アメリカ軍はソ連軍がすでに、満州、北朝鮮、樺太、千島と長い線で攻撃の準備が整っていたことを認識していた。アメリカ軍の日本本土上陸が遅れれば、ソ連軍は満州から、朝鮮半島、九州へと南下、また樺太、千島から北海道、東北へと西下、その線までに早ければ10月くらいまでに到達すると予測した。日本は...

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攻撃中止となった「晴嵐」

愛知特殊攻撃機「晴嵐」とそれを運搬する潜水艦「伊400」は兵器の芸術品であった。1945年8月14日、ウルシー環礁を攻撃する予定の伊400.伊401とそれぞれに搭載されていた「晴嵐」6機は攻撃直前に中止命令を受けた。伊400号潜水艦は6000t、航続距離6万キロあり、3つの直径3.5mの筒の中に折りたたんだ「晴嵐」を収納し、潜行した。「晴嵐」は翼幅12.2m、全長11.6m、高さ4.6m、3・3t...

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毎日のように数万の日本人が命を落とした60年前

60年前の今日このごろ、1945年8月15日の日本の無条件降伏受諾に向けて、6日の広島核攻撃、8日のソ連侵攻、9日の長崎核攻撃、極端な話、日本人は毎日、平均数万人の単位で命を落としていた。長崎はキリスト教徒の町だ。1865年に完成したロマネスク建築の浦上大天主堂、アメリカはこの存在を知りながら原爆を投下した訳だから、宗教などはまったく考慮したなかった。長崎原爆の犠牲者74000人のうち約15%がキ...

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1945年8月8日ソ連野望と占守島の戦闘

1945年、ドイツ降伏来、日本国政府はこともあろうにソ連に連合国との講和斡旋を依頼していた。何と言う国際感覚のなさ。それは見事に裏切られ、8月8日、ソ連軍は満州に、157万人の大兵力、5000両の戦車、3500機の航空機で侵攻してきた。日本軍は8月15日をはさみ45000人が死亡した。満州には100万人の民間人がいて、うち約83000人が死亡した。残留孤児などは10000人にのぼった。この悲劇は後に残留孤児帰国で周知のことだ。(6500人...

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中島特殊攻撃機「橘花」の試験飛行成功、8月7日

日本の初のジェット機であった、「橘花」は広島に原爆が投下された日の翌日7日に海軍、木更津基地で初飛行に成功した。同機はよくドイツのMe262の複製を間違われるが、まったくの日本独自の開発で、アメリカの研究者の間では量産されたら、Me262より優秀な機体であっただろうと評価されている。但し、「橘花」には武装はなく、爆撃機であった。ヒットラーがMe262に要求した内容ときせずして同じであった。実は日本はジェットエン...

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「広島への原爆投下」をスピルバーグに映画化させる。

かって、広島の「平和記念資料館」を訪れた際、私は「小学生が持っていた弁当箱」の前で身体が凍りついた。随分長い間その弁当箱を見ていたと記憶している。それを持っていた子が自分に乗り移った気分だった。母親に昼の弁当を作って貰い、それを持って勤労奉仕に行く途中だった。午前8時15分、彼の頭上で原爆が爆発した。一瞬にして彼は炭化した。母親は、少年を探しに探し、夕方、ようやく道端に倒れている彼を弁当箱で識別し...

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ノモンハンで日本は負けたのか?その2 第一次世界大戦後最大の空中戦

ノモンハン事変は大規模な地上戦に展開したが、また広大な戦場を舞台に壮大な空中戦が繰り広げられた。ソ連はザバイカル航空団、シベリア軍管区航空団、それに欧州から1500機以上の航空機を投入した。日本側も最新式、低翼、金属製の九七式戦闘機を多数投入した。双方にとって輸送が困難な僻地の戦場であったが、航空機の進出は早かった。1939年5月から8月に掛けて、同地で戦われた戦闘機同士の空中戦は第一次世界大戦来...

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ノモンハンで日本は負けたのか?その1

「ノモンハン」は満州とモンゴルの国境地帯の何も無い広い草原地帯だそうだ。1939年、66年前の夏、日本とソ連がここで衝突し全面的な戦闘に入った。ソ連が情報公開するまで、日本はこの戦闘で大敗し、敗戦は後の政策決定に大きな影響を与えたとされていた。果たして、それは歴史的な事実であったのだろうか。今でもノモンハン事件には多くの謎がある。最近のアメリカの軍事研究では、戦闘で日本は数量的に負けてはいなかった...

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日本が誇った航空機用カメラ類

新刊「Japanese Aircraft Equipment]の第4章はRichard Alane氏がまとめて「Aerial Camera]航空機用カメラ類である。(写真は同本より)第二次大戦中に使用された、日本の航空機用カメラは種類が多く、全部網羅できないとしているが、その中でも代表的な、陸軍九九式小型カメラと、海軍のルイス型旋回機銃カメラを紹介したい。日本のカメラは精密性は言うまでもなく、レンズが優れており、またシャッター速度も速かった。1)陸軍の...

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朝鮮戦争での日本製アメリカ軍装具

アメリカ軍が朝鮮戦争で使用した、布帯(ジャングルベルト)と水筒、まったくアメリカ軍の装具だったが何と、「made in japan]の印が付けれていた。先週、アメリカのフリーマーケットで見つけたものだ。アメリカ軍は復員する際に兵器以外の装具は持たせて返すので、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの、被服、外被、ダッフルバッグ、被甲(ガスマスク)、軍靴、鉄帽、水筒、帯、雑嚢、背嚢などがまとまって出ることがある。このジャング...

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プロフィール

japaneseweapons

Author:japaneseweapons
日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



刀,弓,槍,薙刀,甲冑,鎧,火縄銃,軍用銃,機関銃など日本の武器や兵器に関する須川薫雄の研究を紹介はここ:
日本の武器兵器.JP


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