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南樺太の40年間



100年前に戻る。
1905年6月18日、日本軍先遣隊が樺太の南岸コロサコフに上陸した。
日本海海戦の勝利により、日本は制海権を完全に確保し、ロシアを講和の場に引き出すためだった。
それまでの1年半間、戦場は外国の地であったものを、直接ロシアが領土と称しているところに侵入し、緊張感を与えるのが目的であった。

ロシア軍はリヤゾノフ中将以下数千の規模の駐留軍が樺太を守っていた。
日本は第十三師団を主力が24日に樺太中部に上陸し、樺太内部において激しい戦いがあったが、7月末にロシア軍は日本軍に降伏し、約4000名が捕虜になり、日本軍は砲、機関銃を含め多数の軍事物資を鹵獲した。ロシアはこのことで国内の不満が続出し、講和の場に出ざるを得なくなった。
日本海制海権を奪われたことで、沿海洲、ウラジオ、さらにシベリアまでが危なくなるという情勢に陥ったからだ。

8月、アメリカでの講和交渉の結果、日本は南樺太(北緯50度を境とし)を領有し、1945年8月ソ連が日ソ不可侵条約を破り、攻撃してくるまで、同地は日本領で、地名には日本名がつけれれ、鉄道、港湾、都市などのインフラが整備された。

樺太は北海道から、43kmと手の届く距離で、江戸時代、幕府が派遣した間宮林蔵が、文化6年(1809年)樺太は大陸と繋がってない「島」であることを発見し、その間が「間宮海峡」と呼ばれるようになった。19世紀初頭、幕府は北海道と樺太を蝦夷、北蝦夷として支配下におきたかった。
嘉永6年(1953年)ロシアは樺太を自国領と宣言した。なお樺太はアイヌ民族の言葉からきたもので、ロシアが呼んでいる「サハリン」もロシア語ではない。
幕末、日本とロシアは、樺太と千島を条約で交換した。

40年間の間、日本は樺太で、漁業、林業、製紙などの工業、鉱業などを開発し、経済的にもロシア時代とは比較にならないほどに繁栄していた。
中心地は豊原で、昭和16年(1941年)には41万人の人口があった。
太平洋戦争中、日本はアメリカが北から来ることを予測し、その防備を固めていたが(千島と樺太で約7万人の戦力)、アメリカ軍は沖縄など南に集中し、北から攻める余裕はなかった。その余白をソ連は突いた。

ソ連は千島、樺太から北海道まで占領する意図であったが、1945年8月後半の千島、樺太における
日本軍の抵抗が激しく、数千の犠牲を出し、その間にアメリカの北海道までの占領が手配できた。
しかし、千島、樺太で降伏した数万の日本兵は、シベリアに抑留され、戦闘期でもないのに、約10%がさらに犠牲となった。(こういう人たちも靖国神社に奉られていることを忘れてはいけない。)
8月末の戦闘と混乱では数千の民間人も犠牲になった。
(日本のマスコミは左翼が多かったので戦後、アメリカには厳しく、ソ連には甘いと言う報道傾向があったのでこういう事実は知らない日本人が多いが考えれば考えるほど理不尽な事実だ。)

本年、日露間で領土問題が協議されるだろう。60年間がたった。
日本人は改めて、樺太、千島の歴史、経緯を勉強し、日本はサンフランシスコ条約(ソ連は参加してなく、日ソ間には平和条約は締結されてない)にさかのぼり、また江戸時代後半の樺太、千島交換条約をもとに千島全体の領土返還を要求すべきだ。
現在、領土そのものは国の経済に大きな影響は与えない。(国内生産も輸入も価格的な格差が小さくなったから。)
しかし、先祖が辛酸をなめ、開発した土地は、日本に属するとすると、要求するのは自然ではないかと思うがいかがだろう。ロシアはソ連ではないが、それでも不可侵条約を破った体制の後継であることに間違いない。
不当なシベリア抑留は、ソ連イコール共産主義、非人道主義というイデオロギーがなさせてことであり、
ロシアの一国民に責任はない。ドイツ人や、ロシア人自体も大勢シベリアに送られ、こころならずもその地からもどることができなかった。
地図はサイト「樺太連盟」より
下の地図はjapan's fight for freedomより、日本軍1905年6月の進行図

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プロフィール

Shigeo Sugawa

Author:Shigeo Sugawa
日本の武器兵器史の研究者、陸上自衛隊武器学校資料館アドバイザー。
目まぐるしく変化する国際情勢、その中で日本が対応する未来への策、安全保障を政治、経済、社会、報道などを多角的に分析する。
また趣味の狩猟、渓流釣りと自然、環境問題。そしてアート、音楽、歴史など文化面をも・・・その思うところを紹介したい。


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