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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。
1940年代後半の「ベトミン」兵士。主に英国製の兵器を装備していた写真。
フランス工廠製の日本の6・5mm小銃弾を見たことがある。
なぜフランスが日本の小銃弾を製造したか、その裏には、第二次大戦終了後の、ベトナムのフランスからの独立、ベトミンとフランスの戦い、そして今の共産主義体制になるまでのベトコンとアメリカとのベトナム戦争、長い話があった。
私たちはベトナムの歴史を良く知らない。
19世紀半ば来、ベトナムはフランス植民地だった。独立運動が本格的になったのは、1940年、ホーチミンの出現による。同年フランスはドイツに占領され、ベトナムに日本が進駐してきたことによった。
日本は約1ヶ月間でベトナムを平定し、サイゴンは1941年12月の英国艦隊攻撃の基地となった。
日本占領下、ホーチミン達は中国に逃れていた。
終戦後、日本軍は一部の兵器はゲリラに渡した。その数は小銃35000挺、機関銃1350挺、迫撃砲200門、その他砲54だった。これらの兵器は後にベトミンの装備となった。
ベトミンは1946年、中国国民党と一緒に日本製、アメリカ製、英国製の兵器をもってベトナムに戻った。その時、日本人、中国人の軍事顧問がついていた。
日本軍のその他の兵器は戻ってきたフランス軍など連合軍に引き渡された。ベトナムに駐留していた日本軍の規模をみると、小銃は10-15万挺、機関銃1万挺位の規模であったと推定される。
(終戦時、インドチャイナ、タイ、シンガポール、マレー、インドネシア総計645000の兵力が残っていた数字から推定した。)
フランスは、これら日本兵器を、ベトナムで編成する地元部隊のために使用するために、フランスの工廠で弾薬を製造したと思われる。
しかし1946年12月から1949年11月までは、双方大きな動きはなく、ベトナムは中途半端な
状況に置かれていた。ゲリラはフランスに協力するベトナム人を殺したりしたいた。
1950年から中国共産党の支援で、ベトミンの大々的なフランスへの攻撃が開始され、フランスは
本国、モロッコ、外人部隊を送りこんだが、結果は1954年5月ディエンビエンフーの陥落で、
フランス植民地軍はベトミンに降伏し、ベトナムは北と南に分かれた国家となった。
日本の兵器、装具は殆ど全てがベトミンの手に渡り、これらはその後のアメリカとのベトナム戦争でも
使用された。アメリカに持ち帰られた、ベトナム戦争記念品の中の日本の鉄帽を見ると、本体は濃い緑色に塗り替えられて、星は赤くなっていた。
ベトナムは長い戦争の末、ようやく今の体制に落ち着いた。しかしカンボジア、ラオス、ミヤンマーなど
まだ、真の民主的、文化的な国家として確立されてない国はアジアに多く残っている。
ベトミンとの戦いで、命をなくしたフランス軍将兵はおよそ8万人にのぼった。その他ほぼ同数が負傷兵として帰還した。フランスはアルジェの戦いとも合わせ第二次大戦後、大きな代償を払わせられた。
(数字は本street without joy, サイトviet minhより参照)
写真はサイト、viet minh より若いベトミン兵士は主にブレン、エンフィールドなど英国製の兵器装具を身につけていた。
この若いベトミン兵の写真を観察すると、すでに白人にコンプレックスを持っていない新しいアジア人の
息吹を感じる。しかし彼らのうち何人が新生ベトナムの誕生まで生き延びられたか。