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アッツ島とキスカ島



映画「キスカ」1965年の東宝作品だ。(写真は映画のビデオケース、なお本編は白黒だ。)
私の戦争映画「100選」の中でも10位以内に入る名作である。監督丸山 誠冶、特技監督 円谷 英二、音楽 團 伊球磨「キスカのマーチ」(この音楽が良い)、三船 敏郎が木村少将を好演した。

アッツ島、キスカ島には日本の戦史上、忘れられないドラマがあった。

キスカ、アッツの両島は、千島列島からアリューシャン列島に入ったところにあり、丁度、北海道とアラスカ中間のアメリカ領土だ。太平洋戦争が勃発し、日本海軍、陸軍はミッドウエイ作戦、ガダルカナル作戦と呼応し、この北の2島を占領した。
アッツには陸海軍2400名、キスカ島には陸軍2400名、海軍2800名の計5200名が守備隊として駐留した。日本軍はもともと北方作戦の訓練は熟達していたが、極地に近い戦場に大いに苦しめられた。
アメリカ軍は1943年5月にキスカより日本寄りにあるアッツ島を11000人の戦力で攻撃し、5月29日、日本軍はほぼ全員が玉砕した。アメリカ軍の1800名の死傷者を出した。
前年のミッドウエイの作戦の敗北で、すでにこの両島の戦略的価値は無くなっていたが、アッツ島の玉砕は日本の社会に大きな衝撃を与えた。「玉砕」と言う言葉がはじめて使われた。

「キスカ戦記」(キスカ会編)は、キスカ島に駐留した陸海軍の兵士達の手記を収集した記録だ。
この本を読んでも、この北極圏に近い戦場での将兵の苦労はいかほどであったかが偲ばれる。
アメリカ本土アラスカからの爆撃に悩まされた。

海軍32防空隊は1942年6月、舞鶴で、320名で編成されたが、25mm機銃8基、13.2mm機銃8基、弾薬2万発、探照灯3基、トラック11両で編成された。
陸軍第三十二高射砲隊は7cm野戦高射砲4門、20mm高射機関砲4門、観測通信機材一式、
重機関銃2挺、2両の修理車、牽引車などの40台の車両を有したいた。

この記述を見ても、海軍は九六式25mm、陸軍は九八式20mmと最新の対空兵器を送っていた。
電探(レーダー)機器も完備しており、アメリカ軍の空襲を事前に感知した。この電探の操作兵は
電気工業専門学校の学生から志願した少年兵であったと言う。新兵器の操作を少年が早く習得したからだ。
余談ながら、小型ながら威力のある、九九式手榴弾は、キスカではじめて発見されたので、アメリカでは「キスカ」型と呼ばれている。

キスカ島守備隊の連絡、補給、撤収に伊号潜水艦を使っていたが、3艦を失い、撤収には第一水雷船隊の駆逐艦を使うことになった。(伊号潜水艦は大型で27艦があった。)

6艦の駆逐艦隊は、1943年7月16日、天候を理由に突入直前に中止して基地に戻った。「戻れば再度試みられる。」と言う木村少将の言葉が印象的だった。
7月29日に霧の中を再び撤収作戦を敢行し、島への滞留2時間で、全ての撤収を完了した。
太平洋戦争中、最も感動的で、スカットするドラマだった。

日本軍の撤収を知らなかったアメリカ軍は8月15日35000の兵力をもってキスカ島上陸作戦を
実行し、機雷や、仕掛け爆薬、味方打ちで、数十名の犠牲を出した。

アメリカへ行く航空便は成田から北海道をかすめ、北へ上がり、千島、アリーシャン列島に沿って飛ぶ。
私はアメリカへのまた帰りの便、飛行上、必ずアッツ、キスカ上空でアッツの悲劇と、キスカの撤収作戦を思い出す。

写真は本「キスカ戦記」キスカ会編

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プロフィール

Shigeo Sugawa

Author:Shigeo Sugawa
日本の武器兵器史の研究者、陸上自衛隊武器学校資料館アドバイザー。
目まぐるしく変化する国際情勢、その中で日本が対応する未来への策、安全保障を政治、経済、社会、報道などを多角的に分析する。
また趣味の狩猟、渓流釣りと自然、環境問題。そしてアート、音楽、歴史など文化面をも・・・その思うところを紹介したい。


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