「山の兵隊」 柳井 乃武夫著
- 2005/06/28
- 16:23
柳井氏は1943年、東京大学の学生だった。
「学徒出陣」はどこの国でもどの時代でもあったことだが、太平洋戦争中の日本の学徒は職業軍人、または一般応召された兵と同様かそれ以上に果敢に前線に出た。
特に特攻兵器や、機械兵器を扱う任務に就かされた。
柳井氏は1943年11月、学徒兵として出陣した。最初は軽い気持ちであったが、徐々に戦争そのもの、軍隊の非効率、非合理に慣らされて行く。
インテリジェンスの高い人間ほど、堪えられない現実であっただろう。
柳井氏たちは広島を出航し、フィリピンセブ島に駐留する船舶兵となった。
日本陸軍は海軍なみの船舶が整っていた。神州丸という上陸用舟艇、大発、小発が搭載できる運搬船もあった。(大戦初期、神州丸は日本海軍にも機密にしていたので、魚雷の誤射を受け損傷した。)
柳井氏の隊は大発を駆り、レイテ島の日本軍を救出に向かうが、レイテ島手前、ポロ島と言う小島に閉じ込められてしまい、アメリカの正規軍の攻撃、フィリピンの原住民の襲撃でちりじりになる。
「山の兵隊」とは、フィリピンの反体制勢力(今でもイスラム原理ゲリラ)が山に籠もることを意味している。
柳井氏は大発に備えられた、57mm速射砲の砲手であったが、山の中を逃げ回る生活で、その緊張感と生活が良くえがかれていた。多くの仲間を戦闘と逃避で失った。
幸い、復員し、軽井沢に父の知人来栖前駐米大使を訪ねた際に、記録を書くように言われ、ノート5冊分の記憶を書き留めた。それらを元にこの本を、1987年発刊した。
柳井氏は東大卒業後、国鉄に入社し、JTB会長であった方である。
1995年、交通会館の事務所を訪問し、さらにいろいろお話を聞いたことがあった。
山の中で、逃避中の兵器、荷物の重さは30kg以上で、現在の海外旅行の際のスーツケースより重いのかと後で書いていた。若いときなので、記憶を頼りに書いた記録は、人名、日付、状況、かなり詳細、正確だったと言われていた。
この本は学徒兵の正確な記録と言う意味で大変価値のある存在だ。
この本と「私の中の日本兵」は私の叔父、レイテ島から生還した2500名のうちの一人(故人大学教授だった)の薦めで読んだものだ。叔父の話も大筋において柳井氏と同じであった。
学徒兵は手加減をせずに、戦闘に向かっていったので、犠牲も大きかった。20歳くらいで死んでしまっては親はやりきれなかったろう。すでにその親たちもこの世には残って無い人が多い。
学徒出陣し死んだ若者の霊はやはり靖国神社にしか奉られないのではないか。
それを一国の首相がまいらずして、何が国家であろうか。現在は彼らの犠牲の上にある。
これを否定する隣国も、非難する朝日新聞も酷いではないかとつくづく感じる。