中攻
- 2005/06/30
- 11:40
海軍の中型陸上攻撃機、九六式(1936年)、一式(1941年)の物語である。
(本の表紙、上が九六式、下が一式)
巌谷 二三男著、1957年、原書房刊。副題「その技術開発と壮烈なる戦歴」
この二つの機種は「陸攻」とも略された、日本海軍代表的陸上中型機だった。(水上機は二式大艇があった。)
皮肉なことに九六式中攻は、1939年来、1942年にかけて華々しい戦果があったが、
改良型の一式は、負け戦の中、悲劇的な結末しか残ってなかった。
両機種とも双発機の陸上攻撃(水平爆撃)か洋上攻撃(魚雷)が目的に開発されたが、その大きな特徴は驚異的な航続距離の長さであった。
両機種との開発は三菱で設計者は零戦と同じ堀越 二郎氏だった。
九六式は、翼幅が25mもあり大きな主翼、2枚の尾翼、全長16.5m、総重量8t、自動操縦装置やADF(中波をつかう方向探知機)を備えた近代的な設計だった。勿論、ハワード・ヒューズなどの発想よりはるかに早く沈頭鋲を採用していた。最高速度373km、航続距離4380kmだった。
武装は九二式7.7mmルイス旋回機銃4挺だった。胴体が狭いので、互い違いに銃座があった。
また胴体下部と上部の銃座は内部から筒をせり出す方式だった。爆弾は800kg搭載。洋上攻撃では
大型魚雷を搭載した。武装が弱いので敵戦闘機に食いつかれると単機では厳しかった。
(写真は「中国戦線の日本兵」より、中国基地で発進前記念撮影する搭乗員たち)
日本海軍は、ドイツが英国本土を爆撃をした(バトルオブブリテン)1940年の夏より早く1939年8月15日、長崎県大村基地から、中国首都南京への渡洋爆撃を実施した。
20機が参加し(悪天候のため編隊は組まず)洋上600kmを含む片道960km、往復8時間の飛行であった。各機、12発づつの60kg爆弾を飛行場など軍事目標に投下してきた。
この渡洋都市爆撃は世界中に大きな衝撃を与えた。
私はこの爆撃は日本が犯した幾つかの大きな失敗例のひとつであったと認識している。
その理由は、自軍の犠牲が多すぎた。3割近くを失っていた。
戦果が明確でなかった。そして何よりも世界世論を中国側に付けてしまったからだ。
爆撃で無差別に殺りゃくされた非戦闘員の映像ほど、攻撃側が反感をかうものはない。
これは東西、今も昔も同じである。イラクでも、ベトナムでも、同じだった。
サイゴンを発進した、九六式中攻撃機は1941年12月10日、マレー沖海戦で、英国艦隊の戦艦プリンズオブウエールズと巡洋戦艦レパルスを轟沈させた戦果があり、マニラ攻撃、シンガポール攻撃など初期戦闘では衝撃的な活躍ぶり示した。
一方、一式中攻は発動機を大型化(1850馬力)して、武装も20mm2挺、7.7mm4挺に
強化した。航続距離も4700kmあった。
ニューギニア、ガダルカナルなどに出撃したが、犠牲は多いものの戦果は上がらず、大戦後期には輸送機的な使われ方をされた。また沖縄戦では特攻機(桜花)の母機として出撃したが、その戦果は明らかではない。(靖国神社遊就館にこのジオラマが作ってあった。)
九六式は1048機、一式は2446機、計3500機近くが生産された。日本の航空機生産は大変な規模であった。
日本が世界最初に渡洋都市爆撃を敢行したり、双発航空機雷撃よる戦艦などの強力艦船轟沈は、皮肉な事実であった。大戦後期に連合軍から同じことをやられたからだ。