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「日本本土防空戦 」



この本は「B29撃滅作戦秘録」の副題がある。
渡辺 洋二著 現代史出版会 徳間書店 

1944年夏から、終戦まで約1年間、日本を悩ませ損害をあたえ、民間人の多くの犠牲を出させた、連合軍主にアメリカ空軍による都市爆撃への日本側抗戦の実態をえがいた本である。
戦闘の流れを各種資料から誇大なく良く捉えた作品である。

B29は日本に向けて、最初は中国大陸から、後に南方(サイパン)から延べ15000機が出撃し、日本の54都市に爆撃を加え、1945年8月には広島、長崎に核攻撃を加えた。

日本側の邀撃結果、B29は約450機の損害を出したと言われる。
B29はボーイング製の4発爆撃機で、1950年代朝鮮戦争まで使用された。「フライングフォートレス」(空飛ぶ要塞)の名を持つ手強い相手だった。マーティン社、ベル社、3社で合計9000機が製造された。
1機を製造するに、小学校校舎が300舎製作できるというほど高価な兵器で、10-12名の乗員を要した。
2200馬力発動機4基、全幅約43m、全長30m、爆弾搭載5t、実用飛行高度1万m、航続距離5000km、この性能は当時、考えれられぬ水準だった。武装は20mmエリコン系旋回機銃であった。

これを邀撃し、450機以上も撃墜した日本側の能力も見くびることが出来ない戦力であったことも
事実だった。そのほとんとが内地に基地を持つ陸軍航空隊の戦果であった。
特に1944年中、中国奥地から北九州工業地帯爆撃に出撃したB29に対しては山口県小月基地の西部軍「屠竜」飛行隊が邀撃した。
日本支那派遣軍から、爆撃隊が日本に向かっている通報を得て邀撃準備をして、6月から8月に掛けての夜間戦闘で大きな成果を上げた。

「屠竜」は双発戦闘機で、制式名は「二式復座戦闘機」で、約1700機が製造された。武装は後期には
大口径化して20mm以上であった。特にB29に効果を発揮したのはホ二〇二・二〇三、二〇四機関砲37mmで半自動、弾薬は15発しか搭載されてなかったが、1発で大型機を大打撃を与えることができる威力はあった。機体の下部から接近し、翼の付け根など面積の大きなところを狙ったと言う。
これらの機関砲の実物は見たことがない。(海軍25mmを受け帰還した航空機の写真では約1・5m四方の大穴が開いていたので、37mmではその威力の大きさは想像外だ。)
復座機は後席で、地上からの無線指示が受けられることがあり索敵に有利だった。
しかし高高度で侵入してくるB29に対して全ての日本機は性能上の問題があった。そのために
単発戦闘機は体当たり攻撃を実施した。体当たりは操縦席か、水平尾翼を狙った。

もし「秋水」が半年早く試験飛行しておれば、日本側は完成品でなくても特攻目的で使用しただろうから、B29の被害はもっと拡大しただろう。
(秋水は1万mまでの上昇が5分間であったと言われている。)
高度8-9000mからの爆撃は精度が悪く、夜間低高度の焼夷弾攻撃が45年冬から取られた。
その被害は甚大であった。(高高度であると新宿を爆撃するに相模原辺りで投弾するので精度が悪かった。)

一つ疑問なのは450機以上も落とされた、約5000名のB29乗員の行方だ。
機体の墜落状態によりそのまま死亡した乗員に関する日本側の記述は読んだことがある。
しかし落下傘降下した乗員は多くが簡単な軍事裁判の結果処刑されたと言う。
(この記録は8月15日に組織的に破棄されて残っているものは少ない。日本側の根拠は、彼らは戦時捕虜ではなく、民間人を殺した戦争犯罪人という解釈であった。事実警察の留置場に入れてから処刑した例もあった言われている。)

推定2000人以上に及ぶと思われる乗員の処刑に対しては、戦後の戦犯軍事法廷での判決・処刑、そしてサンフランシスコ条約で国家間で決着した。今は忘れ去られた事実に近い。

B29に関する情報はサイト、「B29写真museum]より、B29の画像はサイト[Boeing History]より

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プロフィール

Shigeo Sugawa

Author:Shigeo Sugawa
日本の武器兵器史の研究者、陸上自衛隊武器学校資料館アドバイザー。
目まぐるしく変化する国際情勢、その中で日本が対応する未来への策、安全保障を政治、経済、社会、報道などを多角的に分析する。
また趣味の狩猟、渓流釣りと自然、環境問題。そしてアート、音楽、歴史など文化面をも・・・その思うところを紹介したい。


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