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「レイテ戦記」 大岡 昇平著



写真は大岡昇平著「レイテ戦記」上、中、下、中公文庫刊、
下、レイテ、セブの日本船沈没図(サイト、jsu.or.jp より)

1944年後半、レイテ海上戦、レイテ陸上戦の敗北は、戦争の終結を1年間早めたと戦史家は言う。
日本敗北の原因は、誤った情報に基づいた作戦の拙さによるものが主たるものだった。

10月末から12月までわずか2ヶ月間で終了したレイテ戦。
海上戦10月25日、栗田艦隊のレイテ湾突入中止で終了したが、日本は空母4艦、戦艦、武蔵を含む
3艦、重巡洋艦6、その他16艦を航空機500機、人員1万人を失い、連合艦隊は事実上壊滅した。

大岡 昇平氏は自らもフィリピン・ミンドロ島に従軍し、1945年1月米軍の捕虜となった話「俘虜記」「野火」などの作品のほか、並ならぬ情熱をつぎ込みレイテ陸上戦闘の記録をまとめた。
数々の文学賞を受賞した作家であった。大岡氏は1909年生まれ、京大文学卒、1974年没。

レイテ陸上戦闘は、1944年10月末から12月までの話だ。日本軍は精鋭、新兵器10万人をつぎ込み、わずか2500名しか生還しなかった作戦である。
「レイテ戦記」は大岡氏の経験、聞き取り、記録を詳細にまとめたもので、内容に重複はあるものの、優れた記録である。

なぜ決戦の舞台がレイテ島なのか、その理由が良く分からなかったが、レイテ島はフィリピン諸島真ん中にあり太平洋に大きく面したこの島に、日本軍はわずか2万人しか守ってなかった。
アメリカ軍、マッカーサー大将はフィリピン奪還に異常な熱意を示しており、フィリピン諸島に楔を打ち込む、また海上で戦い易い、この島に目をつけて日本軍、陸海の勢力をおびき出した。
アメリカ軍は10月20日、1日間で、10万人、10万tの物資を揚陸させた。

山下大将は現実をみており、レイテ作戦に反対したと言う。
しかし日本軍は制空権、制海権もままならぬレイテにフィリピン各地から兵力を送った。10月30日オルモックに上陸、11月3日から激しい戦闘が始まった。

しかし戦闘はガダルカナル島とほぼ同じ状況に陥り、日本軍は輸送の船が次々を沈められて、膨大な人員と物資の損害を蒙った。(下の地図を参照)日本軍は軍需物資の兵站基地をうばわれ、急速に補給不足に
陥る。
これはアメリカ軍の意図したことであって、例えば、10月18日、フィリピンには450機の日本軍航空機が存在していたがこれらも壊滅的な損害を蒙った。
日本陸軍は、ブラウエン飛行場奪還のため空挺隊、オルモックに高千穂空挺隊を派遣した。
一〇〇式短機関銃、二式小銃、二式短剣、その他空挺装具は大体レイテで鹵獲されたものが多い。

日本海軍はこの作戦中、神風特別攻撃隊を編成し、レイテ沖のアメリカ艦隊に対して初めて「体当たり攻撃」を行った。10月25日、敷島隊の関大尉等が250kg爆弾を抱いた零戦で、護衛空母セント・ローなどを轟沈させた。
神風特別攻撃隊の出現はアメリカ側の予想外の作戦であったが、全体的に日本側の稚拙な情報収集と
作戦立案により、アメリカは予想以上の勝利を収め、日本は敗戦までの「秒読み」に入った。

日本軍は終戦までに在フィリピン駐屯勢力50万人の約8割が死亡した。フィリピンは先の大戦中、40万人と言う多くの犠牲を出した悲惨なところである。住民の被害、犠牲も多かった。
戦後復興賠償が真っ先に実施された国でもあった。

ルバング島で30年間戦い続けた、小野田 寛郎氏の手記[我が回想のルバング島」がもう少し、詳細、正確なものであったら、彼の敗戦に追い込まれ、残存した貴重な体験が生きただろう。

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プロフィール

Shigeo Sugawa

Author:Shigeo Sugawa
日本の武器兵器史の研究者、陸上自衛隊武器学校資料館アドバイザー。
目まぐるしく変化する国際情勢、その中で日本が対応する未来への策、安全保障を政治、経済、社会、報道などを多角的に分析する。
また趣味の狩猟、渓流釣りと自然、環境問題。そしてアート、音楽、歴史など文化面をも・・・その思うところを紹介したい。


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