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「日中戦争」1 児島 襄著



第1巻は1925年から1928年までの話だ。

児島氏はこの本を書くに、台湾にいる郡 志良氏という方に聞き取りをしていた。郡氏は故宮博物院に同年、18歳で雇用され、収蔵物とともに南京、重慶そして大戦後は台湾に移動した方で、その方の波乱な人生を繋ぎながら、中国の激動を正確に語っていた。

1925年、すでに辛亥革命が遂行され、清国は滅亡し12年間が経過していたのに、中国は未だ混乱していた。
同年3月、孫文が死去した。孫文は辛亥革命の父であり、近代中国を建国する偉人であったが、まさしく道半ばであった。

中国が統一的国家としての方向性を見出せなかった理由は、
1)実質的には各地に勢力を持つ軍閥が支配していた。
2)ロシア革命後、ソ連から共産勢力が入り込んでいた。孫文は共産主義にも理解があった。
3)国民政府(蒋介石)の力が不足していた。
などであった。

一方、日本は、北清事変、日露戦争の結果得た、権益を元に満州奉天を拠点として、満州鉄道を守る目的で約1万の関東軍と言う兵力を駐留させていたのみならず、北京、天津、上海、漢口などの重要都市にも兵力を駐留させていた。
以上の軍事力に守られた形で、さまざまな民間投資が行われ、第一次世界大戦中に日本から中国への輸出占拠率は大幅に伸びていた。日本人も多く中国に渡り、経済的なつながりは拡大しつつあった。
当時の日本の内閣は田中 義一内閣であった。この時代は天皇、議会、内閣はまだ日本の軍部を管理できていた最後の時期であった。(1927年4月ー1929年7月)

中国では軍閥の最大派東北地方に本拠があった、張 作霖が1926年北京に進出した。これに対して南京に本拠をおく蒋 介石が1928年、北伐を開始する。

この中国内戦的な争いに日本がその利権を守るため二つの強引な施策を取った。
ひとつは、1928年の「済南事変」である。蒋 介石の軍勢が済南の日本人を虐殺し、略奪をおこなう恐れがあったので天津・青島の駐留軍が派遣され、近代的な装備を背景に蒋介石軍に打撃を与えたことだ。
もうひとつは北京から奉天に戻る張作霖を、関東軍が列車を爆破して殺してしまったことだ。

この二つは、その後を歴史を語るに大変重要な事件であった。
張作霖の息子、学良(ニューヨークのレストランで見かけたことがあったが)は日本軍を親の敵として
大変うらんだ。

中国人が外国人や施設を襲い人間を殺したり物を奪ったりすることは日常的であったが、
この頃の日本側にも理解し難い不気味な何かがあったことは事実だ。
例えば、「支那屋」「大陸浪人」と言う、中国語や中国に関して自称知識理解があると言う性質の良くない人間が利権を狙い暗躍していたことだ。
こういう人間が背景にいたのか、未だに解決のついてない、暗殺事件や不気味な事件が数多く当時もその後あった。

1928年4月、済南・青島から派遣された日本軍は約3300名で、はじめて鉄帽を被った
姿であった。写真の十一年式軽機関銃を多く装備し、中国軍の武装解除小銃2300挺、弾薬100万発以上だった。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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