FC2ブログ

記事一覧

「日中戦争」2 児島 襄著

第2巻は1930年(1929年は世界大恐慌)から1933年までの話だ。
(写真は1933年3月2日、熱河で軍閥軍に発砲する日本軍の四十一年式山砲[中国戦線の日本兵」より)

中国の状況は、国民党政府は国際的問題解決より、国内問題対応に追われていた。
国内の旧軍閥の反抗、共産勢力の扇動による暴動などが全国的大規模に広がり、欧米や日本と落ち着いて諸問題を語りあえる状況ではなかった。
1930年、漢口の共産勢力の暴動は、A・スメドレー女史の「中国紅軍は進む」に描かれているが、むちゃくちゃな暴力沙汰だった。多くの中流以上の中国人は被害を受け、政府機関は破壊された。

日本は、張 学良が支配していた奉天を中心とする東北部に1931年3月「満州国」を建国させた。
日本は中国と、この件に関して話を十分にしたとは言えない。しかし話が出来る状況でもなかったことは
事実であった。
これに対して中国の排日、反日の気運は高まった。その結果、第一次上海事変が勃発した。

このきっかけが中国人暴徒による日本人僧侶の殺害であって、これは日本側の謀略だとする記述は多い。
この本では、「工作は不明」としている。
当時の上海の様相に関しては、昨今のかの地での反日運動(日本人留学生がビール瓶で殴られた)にもあった以上に一触即発であって、僧侶が不用意に中国人を刺激したことは考えられよう。

1932年年初、上海には25000人もの日本人がいた。
日本は日本人生命及び財産保護のために、海軍陸戦隊を、続いて陸軍を、また海軍艦艇(空母「加賀」など)が派遣された。総数3万人規模であったが、国民政府正規軍第19路軍を相手に苦戦した。
中国軍機(飛行士はお雇いも含む)と空中戦も行われた。日本軍にとっては初めての空中戦だった。

一方、1933年に掛けて、満州国の関東軍は、中国東北部と中国北部との間一帯にいた、張 学良の兵力と他軍閥勢力約6万人を排除する作戦に出た。満州国の基盤を固めるためだ。
日本軍は機動力でこの作戦を成功させた。張 学良は自家用機で上海に飛び、蒋 介石に下野を伝えた。
このために北京は無政府状態に陥り、またそこで、略奪などの大変な混乱があった。

日中間の紛争を調停するのは上海に租界を持つ欧米諸国しかなかったが、当時の欧米外交官は各国とも「中国が求めているものが理解できぬ」と言うことでさじを投げた記述をしていた状況だった。

満州国はその後約15年間に、中国全土の平均をはるかに超える工業力、発電力、鉄道網、通信、教育などのインフラが発達し、近代化が著しく進行したと言うのも客観的に認識すべき事実のひとつであっただろう。

日本は満州国建国により、また一層大陸への投資を進行させ、そのような経済活動でデフレ問題を
解決する方向にあったが、しかし額が増えれば増えるほど、撤退は考えられなくなってきた。
(今の日本の中国に対する投資はどうなのだ、日本の会社、何かの理由で撤退するようなことになれば大きな影響を受けるのではないか。)

スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

japaneseweapons

Author:japaneseweapons
日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



刀,弓,槍,薙刀,甲冑,鎧,火縄銃,軍用銃,機関銃など日本の武器や兵器に関する須川薫雄の研究を紹介はここ:
日本の武器兵器.JP


スポーツアンティークは、スポーツ用品や玩具、江戸期からの日本の食器、家具また、合法的な武具・火縄銃や軍装備品もマニアの方々に用意しております。米・日で約40年間に渡り仕入れたものです。



現在の閲覧者数:
カウンター :

月別アーカイブ