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「日中戦争」 3 児島 襄著



この巻は、1933年春、日本軍は万里の長城より北に撤退し、しばしの紛争が少なかった期間、
1937年7月初頭までの話だ。

1937年7月7日深夜、北京郊外盧溝橋の演習場で、日本軍と中国軍が衝突し、戦火が中国全土に広がることになった。日本はいやおうなしに、第二次世界大戦に巻き込まれることになった。
写真は1937年7月18日、北京、天津間の鉄道駅を守る日本兵。明らかに緊張感がみられる。
(「中国戦線の日本兵より)

この4年間、中国の抗日気運は高かったものの、日中間の経済活動は活発であって、活況を呈しており、
日中両軍に「戦意」があったとは著者は信じていなかった。従って盧溝橋の衝突は未だに謎のままと言うのが著者の見解だ。

満州国は順調に滑り出し、政治、経済ともに軍閥の統治時代とは比較にならぬ成長を続けていた。
日本が持ち込んだ官僚組織、民間投資ともに効果をあげだしていた。治安も以前とは比較ならぬほど
安定してきた。満州人、中国人、ロシア人、朝鮮民族人、日本人の5つの民族が共存できる社会を理想としていた。

1934年、蒋 介石の国民党政府も「新生活運動」を提唱し、「知育」「徳有」の要請をなした。
秩序を重んじる「軍事化」、生活を質実剛健にする「生産化」、生活を清潔で明るくする「芸術化」の
三大原則もとなえられた。(現状はこの原則の反対であったからだ。)
また共産党に軍事的打撃を与えることもできた。

1935年、中国と満州国間の交通、郵便、通信、通関の協定がなされ、停戦に関する実質的な業務が完了し、中国が「満州国承認に等しい」ことになった。
歴史的には欧米の植民地でない、日本と中国が争うのは共にアジアのためによくない、と言う考えが
両国にあったからだろう。

しかし、この中途半端な平和は2年間くらいしか続かなかった。1936年12月西安における、張 学良の一種クーデター行動で、蒋 介石は共産党と合作し、抗日民族統一戦線を結成することになった。
その前後にも、各地で日本の民間人、警官、軍人に対するテロは続いていた。

戦争は国家間の武力行使であるので、双方の意思が明確でなければならない。これまでは中華民国が
日本に対して戦争に踏み切らなかったから、戦争にならなかった。
しかし共産党の意思が入ることにより、この背景は大きく変化した、と言っても過言でない。
その後の日中戦争拡大と日本の第二次世界大戦突入の背後に共産主義者の力が働いていたことは、歴史上の事実であったであろう。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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