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「日中戦争」 5 児島 襄著



写真は1940年6月、宣昌、焦土作戦は中国軍が行ったもの。膠着状況の頃の戦闘だ。(「中国戦線の日本兵」より)

今日7月7日は「盧溝橋事件」の68周年になる。
かの地では反日運動が盛り上がっていて、その報道に接すると、歴史的事実を正しく詳細に認識してない日本人は小さくなっているようで情けない。何でもかんでも日本人が悪かったのか。
事実は異なる、もっと複雑だった。 
歴史は事実の積み重ねであり、その経緯を識ることで正しい評価が出来るのだ。もっと歴史を勉強しよう。

児島 襄氏の「日中戦争」5巻は、1938年夏の漢口作戦から始まり、戦争が膠着してしまうまでを
語っている。
日本と中国は講和は図ることができなかったのか。
近衛内閣の稚拙、かつ無責任な言動。(彼の孫も無責任な首相だったが)、さまざまな講和をさせたくない勢力の暗躍。日本では軍部、中国では共産勢力。
ナチスやソ連も、日本と中国を戦わせておくべしという考えであったろう。
もしかしたらアメリカも欧州戦に参戦するためにそういう意識が強かったかもしれない。
(当時のライフ誌などの報道でも、日本を圧倒的に悪者にしていた。)
さまざまな原因が講和努力を妨げ、実現しなかった。

日本軍は1938年夏、武漢を陥落させた。激しい戦闘で犠牲は多かったが、黄河の流れを使い、
海軍が効果的に陸軍を支援した。
日本航空勢力は陸軍九七式重爆、海軍中攻、各々数十機の単位で、蒋 介石の新首都、重慶に爆撃を続けた。日本はこの頃、航空勢力の拡充に力を入れる。1940年、零戦が制定された。

9月以降はこの爆撃も中止した。(軍事、産業施設のないところへの爆撃は有効でない、と言う意見からだった。)

その後、戦いは武漢よりさらに西へ、宣昌、長沙まで進んだが地上から重慶は攻略できず、そのまま膠着状態となった。
汪 兆銘政権が発足した。汪 兆銘も孫 文の弟子で温厚な人格であった。後に暗殺の傷がもとで日本で亡くなった。汪さんは反共の人であり、孫 文の「日中戦うべからず」を貫いた中国の愛国者だ。

当時、日本、中国両国共に主権は国民、民衆に存在したとは言いがたい。
特に中国、現共産政権は、戦後に国民政府を駆逐して成立した。
1930年代、国民に主権がなく(今もないが)、70年ちかくたって、まだ「歴史認識」などと言っているのは明らかに何かほかの目的、意思があってのことである。1925年、孫 文の遺言のように現在でも「革命未だ成功せず。」の状況だ。

ちなみに日中戦争の戦死者は日本側43万人(うち5万人は大戦後に死亡)、中国側150万人くらいであった。

1941年12月8日、日米開戦の報を聞いた、蒋 介石の第一声は「これで勝った」というものだったと言う。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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