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日本海軍の名誉その1、第三四三航空隊と紫電改


写真はわずか400機しか生産されなかった川西、紫電改

1944年から45年にかけての日本本土防衛戦は、その殆どの役目は陸軍航空隊が任を帯び、海軍航空隊は、1944年レイテ海戦で連合艦隊が壊滅して以来、その出番はすくなかった。

しかし、海軍が防空戦闘機として川西航空機に発注した、紫電改はわずか10ヶ月の開発期間で完成し43年末に初飛行、45年から松山の三四三航空隊に配備された。
343航空隊はとても短い期間しか存続していなかったが、松山、瀬戸内海をはさみ、日本海軍の重要基地、呉と陸軍の兵站基地広島を守る重要な拠点だあった。

同隊は約170名の操縦士と、3000名の人員を有し、「彩雲」など偵察能力、四国海岸の電探施設との通信能力など総合的に恵まれた舞台だった。

紫電改は全幅12m、全長9・3m、高さ3m、1825馬力の発動機を備え、武装は九九式2号、200発ベルト給弾(河村博士の開発による)20mm機銃4挺であった。1機、20mm機銃弾、総数800発と言うのは壮観であったろ
紫電改はわずかに400機しか生産されなかった。

残念ながら三四三部隊は45年3月19日に連合軍機動部隊の艦載機54機を撃墜した成果が最大にして
唯一のもので、その後、九州鹿屋に移動した。(同隊の戦果は170機、78名の搭乗員を失ったとしている。)
1945年4月以降、九州に移転して来、沖縄から来襲して小型機の邀撃で戦果を上げたのだった。

7月24日発進した、6機の紫電改のうち1機が、豊後水道で発見されその機体は良い状態で保存されている。(愛媛県南レク御荘公園に展示されている。)この日、発進した同隊はP-51,3機、F6F、13機を
撃墜したが、6機を失った。

日本の工業力は1944年、様々な制約があったなか、わずか10ヶ月でアメリカのP-51に対抗できるような高性能機を開発、特に空戦フラップと言う空戦中に小半径で回れる機能を備えていたことは賞賛にあたいする。

欧州では1943年8月、英国からドイツ奥地に爆撃に向かった爆撃隊、183機のうち60機、
10月にも60機(B-17,B25など)が落され、強力な護衛戦闘機の必要性が高まり、ノースアメリカン
P-51,ムスタングが開発された。紫電改はP-51に能力に匹敵するものであったが1944年春以降、
艦載機をして飛来したP-51に対してに同機は有効な対抗手段はとれなかった。
(欧州戦が終了に向かっていた1945年、連合軍はB-29,P-51など最新鋭の機材を対日戦に投入してきたからだ。)

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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