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終戦3週間前の日本経済と兵器生産


日本の兵器生産を見てみると、1945年7月後半には殆ど生産停止状態であった。
一部特攻兵器は何らかの形で生産されていただろう。
一般経済はほぼ「脳死状態」だった。
農業生産は労働人口の落ち込みから秋の収穫は見込めず、このままでは餓死者は100万人と、政府の非公式な予測は出ていた。
燃料不足から流通は停止し、漁業なども極端に停滞し、食料生産は瀕死の状況であった。

軍事物資はある程度備蓄され、陸軍は1年間ほどの本土での戦闘は継続できると予測していたようだ。
海軍は艦艇を失い、陸上にあがった60万人の戦力に特攻兵器、地上兵器を配備するのに大童だった。

兵器の生産は、1942年頃から航空機に焦点が移り、一般地上兵器は1944年から再度力が入れられるようになった。
小火器系の兵器の編纂を見てみると、1939年、九九式が制定されて以来、新しい兵器の開発は行われてなかった。(航空機関連の兵器の進歩と比較すると興味深い。)

1944年(昭和19年)は兵器生産はドラマチックな変遷を遂げた年だった。
同年の夏を境に、日本の地上兵器はそれまでの方針を捨てて、品質より、数量に、手間をかけないようにしたのだ。唯一の例外は、九九式小銃の銃腔内のクローム鍍金だ。これだけは最後の最後まで行われていた。
九九式小銃は広島の東洋工業(世界一の規模の小銃工場だった)で固定照準の銃が同年以降生産が上がっていた。(広島を核攻撃の目標に選んだ一つの理由と言われている。)
同年、春に作られた兵器と、秋に作られた兵器では、同じ形式でもこれが同じものかというくらいの変化が見られる。
日立の機関銃生産は1944年末には最佳境を迎えていたが、45年になると生産数はどんどん下がっていた。

兵器生産の省力化、例えば、九四式拳銃は1945年7月まで細々と南部の国分寺工場で生産されていた。丸みがなくなり、金属の表面も荒削りのままになって別な銃のような形になった。
一〇〇式短機関銃後期型はこの年にしか生産されなかった。
約9000挺くらい生産されたと推定されるが、2000番台までと4000番台以降ではあらゆるところに省力化がなされていた。
三十年式銃剣は単なる刃をつけた鉄板状になり鞘は木製になった。
海軍では鋳物の機関部の九九式小銃を製造した。

欧米の日本兵器収集家の間では、1945年になってから作られた、粗末な兵器に人気がある。
木鞘に入った三十年式銃剣は、小倉工廠などで30年代に作られたものより高い。
九四式拳銃の弾倉、横の釦が円状の最後のものはレアものになっている。

なぜ、こんな粗末な日本兵器が人気があるのか。
それは「ここまでやってまだ戦うのか」、欧米の論理では「降伏しかありえない」状況を意味していた兵器だったからだ。
当時の日本人の心理、私は父親にも時々聞いたが、今でもよく理解できない返事があったと記憶している。多分、自分でも自分がどうなるか、一日一日が過ぎればよいと、いうような感じだったのだろう。

写真は九四式拳銃の多分1945年になって製造された弾倉。これが高いのだ。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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