FC2ブログ

記事一覧

大西 瀧治郎軍司令部次長的死に方


軍人は自分の[死ぬときと死に方」を考えておけと教えられていた。

海軍神風特攻隊の生みの親、大西 瀧治郎中将は8月16日、自刃した。つまり腹を切ったわけだ。
靖国神社に彼が帯刀していた刀が展示されている。

大西 瀧治郎は海兵40期、1945年8月、55歳だった。
彼の生き方はとても考えさせられる。

1941年初頭、第11航空艦隊参謀になり、真珠湾攻撃の策を練った人間の一人だったと言われている。
日本の戦争の「はじめ方」を考えていたときに「終わり方」も考えていたかは疑問であったが、
研究者は真珠湾攻撃を指揮した山本 五十六元帥(ニューギニアで撃墜され戦死、阿川 弘之先生の文にあるとおり)は真珠湾は日本敗戦の始まりと感じていたと言うが。

「特別攻撃」は現実的戦術であって、単に妄信から生まれたものではなかったことは先にも記したとおりで、かなりの高い確率の戦果を示していた。
命中率14%、アメリカ軍はレーダー、索敵、防空、対空、主砲の発射あらゆる手段を講じても、これ以下にはできないと予測していた。日本に残された特攻能力を計算すると膨大な損害が予測された。
一方、敗戦を迎えつつあった時期、大西中将はいずれにせよ、彼の作戦で、
4000人近い若者が参加死んだので、自分も死ぬつもりであった。

彼の地位なら、8月15日のホツダム宣言受諾は数日前に知りえたわけだったので、理想的には8月13日か14日に、自ら操縦士として特攻攻撃に参加して散って欲しかった。
彼の日降伏姿の写真も残されているので、ある程度操縦能力はあったのではないか。

生きさらばえるより、自刃するというのはそれなりの覚悟がいることは間違いない。
そうしなかった人間も沢山いたわけだった。

宇垣 中将は、天皇の終戦宣言、8月15日後、その日か翌日16日、特攻出撃し、戻らなかった。
アメリカ側は攻撃があったと認識してないので、単なる自殺飛行になってしまった。
特攻作戦を計画した指導者達は、終戦前に自分が飛行して攻撃に参加、そして散るのが理想的な生き方、
死に方だったかもしれぬ。
今となっては当時の人間の心理は計り知るも難しい。

写真はサイト、kamikazeより戦艦ミズリーに突入する零戦。この艦で降伏文書署名が行われた。

スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

japaneseweapons

Author:japaneseweapons
日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



刀,弓,槍,薙刀,甲冑,鎧,火縄銃,軍用銃,機関銃など日本の武器や兵器に関する須川薫雄の研究を紹介はここ:
日本の武器兵器.JP


スポーツアンティークは、スポーツ用品や玩具、江戸期からの日本の食器、家具また、合法的な武具・火縄銃や軍装備品もマニアの方々に用意しております。米・日で約40年間に渡り仕入れたものです。



現在の閲覧者数:
カウンター :

月別アーカイブ