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義烈空挺隊の死生観


今の人間には「必ず自分は生きては帰れない」と言う心理は理解できないと言うか、現実のものと考えられない事実だ。例えば、旅に出るとき、これで帰れないとは考えて出る人間はいないだろう。
60年間、日本は平和を享受しているが、これが永遠に続くと良い。ひとつの死生観の例を60年前にみてみたい。

1945年5月24日夕方、熊本県健軍飛行場を発進した12機の陸軍九七式重爆撃機の搭乗員、操縦者150名余は疑いもなく自分が帰れない作戦と知っていて出たわけだ。

写真で見る、義烈空挺隊の一行は奥山大尉以下、淡々とした表情であった。これが「死に場所」と言う感が見事だった。隊員の平均年齢は23-4歳くらだったろうが、彼らの死生観が計り知れる。

午後10時ごろ、脱落した4機を除く8機は、沖縄読谷飛行場に強行着陸を試みた。対空砲火や目測の困難さから、アメリカ側の写真記録では殆ど損傷なく着陸した機体は1機のみであった。
その機体から飛び出した12-3名の隊員は暴れまくり、アメリカ側の記録では、航空機9機を破壊し、
29機に損傷を与え、3万リッターの燃料を燃やしたので、日本側は作戦は成功した、と発表するだろうとしていた。

防衛研究所の「義烈空挺隊計画書」にある150名の装備は以下の通りであった。
三十年式銃剣 135振、九四式拳銃 75挺(各弾倉3個)、一〇〇式短機関銃 37挺(各弾倉10個)、九九式短小銃 43挺、九九式軽機関銃 12挺(各弾倉6個、弾薬5400発)、手榴弾 2015個)、擲弾筒 1門、その他爆薬多数だった。

アメリカ側の記録写真では、破損した機体の横にご遺体が幾つかあったが、兵器、装具はすでに持ちさられていた。記録では25日の昼過ぎまで、胴体着陸に成功した1機から飛び出た隊員は戦い、最後の1人が草むらから匍匐で出てくるところを射殺された。

写真はサイト「義烈空挺隊」から「故郷の方角に別れを告げる隊員各位」
隊員の死生観ははかり知ることは出来ないが、今、人生の3分の2以上を経た筆者としては替われるものなら替わってやりたい。
イラクで戦っている若者にも同じことが言える。私は戦闘車両の操縦とか、・50口径機銃の射撃は出来そうだから、替われるものなら替わってやりたい。いつ死んでも悔いはないからだ。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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