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日本の捕虜収容所


「King Rat]はシンガポール、チャンギあった日本軍が管理する、連合国兵士の捕虜収容所をテーマにした小説だ。
イスラム系マレー人が豚肉を食していたり、、日本人の名前がでたらであるなどリアリティにかけていたが収容所の劣悪な生活環境、非人道的な状況を描き、ベストセラーとなった。

1942年はじめ、アジア各地で日本軍の捕虜となった連合国兵士の多くは日本本土の収容所に送られた。
過酷な食料事情、労働で多くの捕虜が死んだらしいが、明確な記録が日本にはない。
(10数年前に当時の厚生省、防衛研究所に人を派遣して調査してもらったが、記録が残ってなかった。
多分、アメリカのアーカイブにはかなり正確な調査資料が残っているだろう。)

第二次大戦中、日本には44箇所の捕虜収容所があって、約34万人の連合国側の捕虜が南方から海上輸送されてきたそうだ。南方にはまだ6万人が残っていたが、海上輸送中に潜水艦の攻撃で、約1万名が命を落とした。(意外に大勢で、日本でも様々なストーリーがあったはずだが、驚くほど残ってない。)
日本はジュネーブ条約の「捕虜の待遇に関する97か条の条約」を批准してなくて、また一般の兵士に対しても捕虜の扱いに関する教育はしていなかった。また植民地志願兵に収容所の管理を行わせてと言う。

従って、日露戦争のロシア兵捕虜、第一次世界大戦のドイツ兵捕虜に対する待遇や処置と、第二次世界大戦の連合国(アメリカ、英国、オーストラリア、フランス、オランダなどの各国兵)の捕虜への扱いは大変ちがい、劣悪であったと言える。
「食料は捕獲国後方と同一基準」とされていたが、44年から45年に掛けては日本国内でも餓死者が出るほど食糧事情が悪く、収容所の食料状況の粗末さは推察されよう。ゴホウや納豆を食べさせて戦犯になった人もいたと言う。
日本側での捕虜の死亡率は30%と高かった。なんど10万人ちかい数字だ。(ナチスドイツですら7%だった。)欧米諸国はサンフランシスコ講和条約後は一切、このことに関しては言わない。近隣諸国とは大違いだ。

「King Rat]の中では収容所の監視はコリアンの志願兵で、彼等が捕虜に残酷にあたったと書いてあったが、小説だからその実態は分からない。日本側は、
収容所の場所、捕虜の国籍、人数、死亡者などの数字は1945年8月15日に組織的に破棄してしまったからだ。従って、日本本国で誰が連合国捕虜をどこでどのように扱ったかを書いたものは希少である。

写真は日露戦争中の有名なもので、日本の看護兵が負傷したロシア兵捕虜を負ぶっていたもの。
(Japans Fight for Freedom)より。

サイト、pows in japanの中では日本本土には109箇所の収容所があったとしている。
別な資料では、35万人の連合軍捕虜のうち、22万人が米英軍で、そのうち35000人が収容中に死亡した(約17%)としている。
いずれにせよ、日本軍の捕虜になった人々の幾つかのサイトがあり、その内容は日本に対し今でもすごく怒っている。

一つの例として、南方から日本に移送されて、冬を迎えるのに冬用被服を支給されなかったので、肺炎になり死亡した人間が多かったと言うような、やりきれない内容のものもある。

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コメント

No title

日露の時代に出来たことが、なぜできなかったのか、残念ですが、国内の状況も日露の時代と、今次大戦では大いに違っていますね。戦闘機を製造していた工員でさえ、最終段階では、豆かすの飯でした。私は子供のころ彼らと同じものを食べていましたので、よく知っています。

No title

第二次世界大戦は本質的に「人種」戦争になってしまったのが、捕虜に対する扱いとか、日本に対する核攻撃となったのではないでしょうか。 ナチはユダヤ人、スラブ人、などを大量虐殺しましたし。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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