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23歳だった「撃墜王アフリカの星」 戦争映画100選挙 その100




戦後それほど経ってないない1957年製作、ドイツ映画だ。監督Alfred Weidenmann。
筆者は10代の頃、2回見ており、最近また見直した。
原題は[Der Stern von Afrika]、主役のハンス・ヨアヒル・マルセイユ(Joachin Hansen)は1939年、空軍の操縦候補生としてメシュターシュミットMe109の訓練に励んでいた。
1941年夏、「バトル・オブ・ブリテン」に参加した。
同僚のロベルト・フランケ少尉夫妻と同じ集合住宅に住んでいて、同じ学校に通い、同じ部隊で戦っていた。フランケ少尉は候補生時代、問題を起こすハンスを何かとかばってくれた。
ハンスは航法訓練でアウトバーンに着陸し、農民に位置を聞いたなど処罰対象になったからだ。彼らは北アフリカに移動し、そこで「ロイヤルエアーフォース」のスピットファイアー、ハリケーン、
アメリカ製P-40と戦った。

ハンスは1942年2月までに50機撃墜少尉に任官し、その後総計158機の撃墜記録を持ち、各種の勲章を授与された。
戦闘機操縦士は、優れた操縦能力、射撃の勘、そして仲間の協力がないと生き残れない。彼の元に来たクレイン操縦士は、次の日に戦死した。司令部の老大尉は戦闘機操縦士の死は息子達の
死ととらえていた。当時の第一線の操縦士の命は3ヶ月と言われていた。ハンスも仲間の死に悩む。

パリのホテルロビーであった老人が、若い操縦士達を見て「恐ろしいことだ。この老人のほうが長生きするのだから」とつぶやくシーンが印象的だった。

この映画の音楽はクレインが持ってきたSP版、ルンバで、映画公開当時、ラジオからしょっちゅう流れていたのを思い出した。

Me109はドイツルフトバッフェの主力戦闘機で、33000-35000機くらいが生産された。
スイス、スペインに輸出されて、スペインではイスパノ型としてライセンス生産され両国では1960年代まで飛行していた。この映画もスペインの機材を使用したそうだ。
撃墜シーンがいまひとつ迫力なかったが、実機を10機の単位で飛ばしていて、操縦士達のテント生活も
よく描かれていた。

ハンスは表彰のためベルリンに行き、そこで出会った教師の女性ブリギッチと恋におちいり、ローマ、そしてイタリアの田舎でしばし一緒に過ごした。
しかしまた北アフリカに戻り、事故死した。まだ23歳だった。

ドイツには東部戦線に300機以上撃墜の記録を持った撃墜王、エンリッヒ・ハルトマン少佐(10年の
シベリア抑留の後帰国できた)、ゲルハルト・バクルク少佐など、100機以上の撃墜記録を保持する
操縦士は107人いた。日本の坂井三郎氏は64機。
ハンスは性能の落ちるソ連機ではなく、英米機を相手にしていたのと、容貌が良かったので、軍がプロパガンダに使ったのだろう。
ドイツは第一次大戦後、航空機軍備を禁止されていたので、学生にグライダー訓練を行い、そこから
優秀な操縦士を選抜していた。

Me109は約1500馬力の水冷発動機を備え、武装は13mmが2挺、20mm1挺と強力で、主脚が「ハ」の字型で外側に開いて収納された。だが航続距離が650kmと短くて、局地戦闘機の感があった。

画像はMe109、ハンス・ヨアヒル・マルセイユ、そしてDVDパッケージ

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コメント

No title

精力的に書き込みをする姿勢はご立派ですが、もう少し時間を取って推敲してみては?半可通の自分が見ても解る様な記載ミスが結構目立ちますので・・・。メッサーシュミットに関してはBf109、もしくはMe109です。

No title

ご指摘ありがとうございました。筆者も自分で操縦免許と持っておりますが、正直、武装以外は航空機はあまり専門ではありません。

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プロフィール

Shigeo Sugawa

Author:Shigeo Sugawa
日本の武器兵器史の研究者、陸上自衛隊武器学校資料館アドバイザー。
目まぐるしく変化する国際情勢、その中で日本が対応する未来への策、安全保障を政治、経済、社会、報道などを多角的に分析する。
また趣味の狩猟、渓流釣りと自然、環境問題。そしてアート、音楽、歴史など文化面をも・・・その思うところを紹介したい。


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