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「熊谷陸軍飛行学校」 1943年6月


昭和18年6月、讀賣新聞焼き付けカードより。
説明は
「新潟下臨港第一町内会潤田清蔵さんの妻りいさんは愛児が病気で操縦生になれぬのを嘆いて熊谷飛行学校に教官を訪れ懇願した。愛児の機上姿を見届けて帰郷した。」とある。

画像には練習機の脇に2人の姉妹と思える婦人が立っており、背景には3機の練習機と燃料トラックが
見える。機上の操縦訓練生の顔は判別不能である。

この説明通りとすればおかしな話だ。潤田飛行練習生の「病気」とは何であったか。母が教官に頼んで、
本当に飛行訓練をまた開始できたのか。
ただ風邪をひいたくらいなら、治れば訓練は開始できようが、もし操縦士適性に関わる病気とか、結核などではとても練習生の母が懇願して、再び機上の人となることが出来るような日本陸軍とは思えない。

同飛行学校は1930年(昭和10年)に熊谷の三ヶ尻村に開設され、1935年、東京陸軍飛行学校となり、多くの訓練生がここで操縦士となった。

機材は「赤トンボ」と呼ばれたキ9、九五式練習機で、立川航空機製造製、350馬力の発動機を備えていた。木と鋼管羽布張り構造、固定脚、複葉だった。黄橙色に塗装されていた。
同じ機材は学生航空連盟でも使用されていた。

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コメント

No title

二人のうち右側は男性に見えます。また、訓練生になるぐらいの子供を「愛児」と標記するのはおかしいので、病気の子供を訓練機に乗せたという「美談」ではないかと。

No title

写真が鮮明でないのですが、女性の着物のようで、文章はカードにある がままでオヤジは飛行学校に行ってないようです。

No title

う~ん、そう言われて見直すとそうとも見えますね。失敬。

No title

お母さんの姉、つまり伯母さんではないかと推定しました。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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