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源田 實氏最後の活躍 「海軍航空隊始末記戦闘編」 その3



同氏の「戦闘編」中で、「マリアナ海戦」に関して長々述べているがその敗戦の原因は明確でない。
アメリカ潜水艦に日本の大型空母が轟沈されてしまう、それがどうも敗因のようだった。
レイテ海戦に関しては殆ど述べてない。彼の担当外だったのだろう。

1945年になって彼は、松山の343空の指令に任命された。
この頃、日本は防空戦闘に必死で、陸海軍合わせて、日本本土各地の基地には防空戦闘隊が次々組織された。
当然、マリアナ諸島から来襲するB29対策だった。
しかし1945年になり、日本近海に連合軍機動部隊(英国を含む)が現れる可能性が強くなり、
松山の基地は、呉軍港を守るために開設された。

海軍の残った優秀な戦闘機操縦士が集められて、機材は「紫電」および「紫電改」だったが、その数は限られていた。
また、日本本土のレーダーシステムも立ち上がり、ある程度早期警戒が可能になってきた。

源田氏は高速偵察機「彩雲」(戦闘能力も高かった)を四国海岸線に配し、その目視による報告が来て、戦闘隊を離陸させる策をとった。
あまりに早く局地戦闘機を発進させると、敵との遭遇のタイミングが難しいからだ。燃料が足らず、
着陸しなければならない。
彼は戦闘機操縦士は離陸後半時間から1時間で敵と遭遇するのが最も効率が良いと考えていた。

松山343空は「空の新撰組」(この頃になると子供じみた、漫画的ネーミングが幅をきかした)
と呼ばれる部隊もあり、大いに期待されたが、唯一ともいう勝利は3月19日、50機が発進して、300機来襲した連合軍艦載機を57機撃墜したことであった。

「ミッドウエイの頃のように搭乗員生命の対する過剰な配慮が過ぎて戦機を逸するようなことはしない」
と書いていた。

海軍航空隊はB29の撃墜率では陸軍航空隊とは比較にならなかった。源田氏率いる343空は九州に転進するが、その後ははかばかしくなかった。
B29は日本空爆で450機が失われたが、その8割は日本陸軍機がおとしたものだろう。

画像は「新選組」と「紫電改」、源田 實氏は85歳で松山で亡くなった。
私は今でも選挙運動中、故障車の横で目を細めて立っていたスーツ姿の源田氏が記憶にある。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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