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長州改革派に衝撃、4カ国艦隊の下関攻撃 歴史を勉強しよう その14


日本は蒙古襲来来、外国の侵略を受けたことがない、と言うのは第二次大戦中までの、プロパガンダだった。
しかし実際には1864年、4カ国艦隊5000名が下関を攻撃し、およそ1900名の外国兵が上陸し、それを追い返すことなく長州軍(奇兵隊など新兵器を装備していたが)は敗退した事実があった。

パリのアンバリッド軍事博物館庭に日本製青銅砲が何門か展示されている。長さ5mから7mくらいの
中型砲だ。これらは下関を攻撃したフランス海軍に鹵獲された兵器だ。
これらの砲を製造するに、長州は藩内の火鉢や鐘を材料として製造したと言われている。(大仏次郎「天皇の世紀」より)

前年、鹿児島湾の敗北に懲りて英国海軍は、自らは8艦の強力な艦隊、オランダ4艦、フランス3艦、アメリカ2艦、計17艦の蒸気船主体の艦隊で、艦艇砲288門と言う大戦力だった。
しかも旗艦ユーリアラス号の砲は4500mの射程があり、長州の青銅砲(射程はせいぜい1000m)の敵ではなかった。
9月に攻撃は実施され、長州軍の砲台はことどことく破壊され、ゲベール小銃、ミニエー小銃(前装ライフル)を装備した奇兵隊も散発的応戦しかしなかった。しかし連合艦隊陸戦隊にも死傷者は出た。
アーネスト・サトウ卿は自らも上陸部隊に加わり、弓で射殺された連合艦隊陸戦隊員の死体を目撃したと
書いてあった。和弓で射殺された外国兵がいたことは和弓の歴史に特記すべきことだろう。

この連合艦隊の長州攻撃の背後に徳川幕府が存在したことは明らかだ。
1866年6月、幕府はもう大丈夫だろうと、西洋風に訓練された兵力を主に第二次長州征伐を行うが
作戦の稚拙さや、長州奇兵隊の反撃、将軍家茂の病死で、敗退した。
長州軍は前年、外国連合軍との実戦で度胸がつき、指揮系統が改善されていたのだろう。
一方幕府軍は画像のような教練は積んでも実戦の経験は薄かった。

これが1868年の薩長連合軍に敗退した始まりで、明治維新のきっかけになった。
画像は横浜における幕府軍の西洋式調練の錦絵。

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日本の武器兵器研究、火縄銃から軍用銃までと多岐にわたり、 また急激に変化がある国際状況、日本の安全保障と外交を 論じる。



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